


長尾寺の山門(仁王門)の前に立つ一対の「長尾寺経幢(ながおじきょうどう)」は、国指定重要文化財(1954年指定)であり、鎌倉時代中期(13世紀後半)の激動の歴史を今に伝える極めて貴重な石造物です。
この経幢の定義や、なぜ弘安6年(1283年)と弘安9年(1286年)に建てられたのか、その歴史的背景を紐解いてご紹介します。
1. 「経幢(きょうどう)」とは何か?
経幢とは、お経(経文)を写経して地中に埋納・保存した場所の「目印(標識)」として、あるいは供養のために建てられた石塔です。
もともとは中国の唐の時代に始まった風習で、日本では鎌倉時代中期頃から造られるようになりました。長尾寺の経幢は日本国内でも屈指の古さと歴史的価値を誇るものです。
- 構造:地元産の「凝灰岩(ぎょうかいがん)」で造られており、高さは約2メートル。太い四角柱の角を大きく削った「大面取(おおめんとり)」という特徴的な形をしています。塔の内部には経典を納めるための空洞(経穴)があり、上部には仏教の如来を表す「梵字(種子)」が刻まれています。
- 二基の配置:山門の前に覆屋(屋根付きの囲い)に守られて左右(東西)に並んでいます。
- 向かって左(西側): 弘安6年(1283年)7月銘
- 向かって右(東側): 弘安9年(1286年)5月銘
2. 建立の背景:歴史を揺るがした「元寇(蒙古襲来)」
この経幢が建てられた「弘安(こうあん)」という元号は、日本の歴史上最大の危機の一つである「元寇(蒙古襲来)」の時代そのものです。
| 出来事 | 年代 | 経幢の建立 |
| 文永の役(1回目の襲来) | 1274年(文永11年) | |
| 弘安の役(2回目の襲来) | 1281年(弘安4年) | |
| 西側の経幢 建立 | 1283年(弘安6年) | 弘安の役の2年後 |
| 東側の経幢 建立 | 1286年(弘安9年) | 弘安の役の5年後 |
歴史的な考察として、この二基の経幢は「元寇の役で命を落とした出征将兵や防人(さきもり)たちの霊を慰め、国土の安穏を祈るため」に建立されたと伝えられています。
当時、讃岐国(現在の香川県)からも多くの武士が九州の最前線へと出征していきました。激しい戦争が終わり、国を挙げての戦死者供養や「再び敵が攻めてきませんように」という強い祈りが込められ、長尾寺にこの堅牢な石塔が奉納されたと考えられています。
3. なぜ長尾寺に建てられたのか?
鎌倉時代の長尾寺は、豪族たちの祈願所や地域信仰の絶対的な中心地として、非常に栄えた名刹でした。
また、この弘安年間(1280年代)の直後には、源平合戦の悲劇のヒロインである静御前(しずかごぜん)が母の磯禅尼(いそのぜんに)とともに長尾寺を訪れ、得度(髪を剃って仏門に入ること)したという記録(1280年代後半〜1290年代頃)も残っています。
つまり、当時の長尾寺は「傷ついた人々の心を救う場所」としての役割が非常に強く、だからこそ国家的な大災難であった元寇の戦没者を慰霊するシンボルとして、この経幢が本堂前に据えられたのです。
(※大正から明治の末年にかけて、現在の山門前の位置に移設されました)
4.現代の姿
長い年月の風雨にさらされたため、表面に刻まれた「弘安六年」「弘安九年」といった文字は現在では肉眼で読み取ることが難しくなっていますが、完全に崩れることなく当時の姿を留めています。
山門の前に立ち、この2本の石柱を見上げると、およそ740年前の鎌倉時代の人々が抱いた「平和への祈り」の重みを肌で感じることができます。長尾寺を訪れるお遍路さんや観光客にとっても、境内で最も歴史の深さを実感できるスポットの一つです。
5.なぜ経幢(きょうどう)の大きさが全く違うのか?
長尾寺の山門前にある二基の経幢(きょうどう)は、左右一対(ペア)のように並んでいますが、実は大きさがかなり違います。(西側がやや小ぶりで、東側の方が一回り大きいです)
このサイズが全然違う理由は、主に「作られた時期が違うこと」と、それぞれの「作られた目的(背景)」にあります。一度にセットで作られたものではないからこそ、サイズに差が生まれました。
その詳細な理由は以下の3つのポイントにあります。
理由1:一基ずつ、3年のズレを置いて別々に作られた
一番の理由は、この二基が「最初から対としてデザインされたものではない」ということです。
- 西側(左): 弘安6年(1283年)建立
- 東側(右): 弘安9年(1286年)建立(高さ約252cm)
西側のものが先に作られ、その3年後に東側のものが作られました。 東側の経幢は、専門的には「西側の古い経幢をベースに見本(模倣)にして作られた」とされていますが、3年の月日が流れる中で、より立派で大きな石(地元産の凝灰岩)が手に入ったこと、あるいは別の職人(大工)や予算で造られたことによって、一回り大きなサイズで完成することになりました。
理由2:元寇(蒙古襲来)の「戦況」と「祈りの重さ」の変化
この経幢が建てられた1280年代は、まさに「元寇(蒙古襲来)」の直後です。
1281年の「弘安の役」で日本は元軍を退けましたが、当時は「また3回目の襲来(3度目の戦争)があるかもしれない」という、国家的な大緊張が続いていました。
- 1283年(西側): まだ戦争が終わってわずか2年。戦死した地元讃岐の将兵たちの「切実な供養(慰霊)」が最優先だったため、まずは手早く一基目が建てられました。
- 1286年(東側): 戦争から5年が経ち、元軍の再来に備える防人(さきもり)たちの無事を祈るなど、さらに「国家安穏への祈り」としての性質が強くなりました。より大きな祈りや、地域(大願主)からのより多くの寄進・財力が集まった結果、3年前のものよりもスケールアップした堂々たる石塔が奉納されたと考えられています。
理由3:もともとは違う場所にバラバラに立っていた可能性
現在でこそ山門(仁王門)の前にきれいに左右に並んでいますが、記録によると、これらは明治時代の末年になってから、本堂の前より現在の場所へと移設されたものです。
鎌倉時代に奉納された当時は、本堂前の少し離れた境内や、それぞれ別の写経を埋めた場所に独立して立っていた可能性が高く、最初から「左右のバランスを揃える必要がなかった」ことも、サイズが自由に作られた背景にあります。
見どころのポイント 東側(右)の大きい経幢は、当時の「大工(彫刻した職人)」の名が刻まれているなど、当時の最新技術を注ぎ込んで西側の形をベースにグレードアップさせて作られたことが分かっています。
お寺を訪れた際は、ぜひこの「3年のタイムラグ」と「祈りの巨大化」が形になった、サイズの違いに注目してみてください。